深田 上 免田 岡原 須恵
幻の邪馬台国・熊襲国 (第15話):アナザーストーリー (4)

15. よみがえった邪馬台国・九州倭国

1. あらためて、邪馬台国は九州北部

 魏志倭人伝には、邪馬台国の女王卑弥呼は死んだことと、後継者の壹與(いよ・とよ)のことが次のように書かれている。

 「卑弥呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人 更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人 復立卑弥呼宗女壹與年十三為王 國中遂定 政等以檄告喩壹與 壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪拘等二十人 送政等還 因詣臺 獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雑錦二十匹」

 意訳すると、「卑弥呼は死に、大きな墓(冢 つか)を作った。直径は百余歩。徇葬者は男女の奴隷、百余人である。さらに男王を立てたが、国中が不服で互いに殺しあい、千余人が殺された。そこで以前のように、卑弥呼の宗女、十三歳の壹與(以下、壱与と書く)を立てて王としたところ、国中が安定した。帯方郡から派遣されている張政たちは、本国の方針や自分たちの考えを壱与に伝え諭した。壱与は官職の善中郎将や掖邪拘等二十人を帰任する張政等に同行させ、魏の中央官庁に出向き、男女の生口(捕虜・奴隷)三十人を献上し、白珠(真珠)五千孔、青大句珠(ヒスイ勾玉)二枚、模様の異なる雑錦二十匹を貢いだ」である。
 ここで、「異文雑錦」とは異国模様のある絹織物のことである。「匹」は現在の「疋(ひき)」であり、絹織物の長さ単位であって、1匹は約9.6mである。

 このように、卑弥呼の死んだことは書いてあるが、没年の記載はない。多くの史家の想定は3世紀の半ばであるが、あらためて、卑弥呼の九州邪馬台国はどこにあったのかを明らかにしておこう。

 どこが王国であり、都であったかを知る上で、地形や水利は当然であるが、遺跡からの出土品や墳墓からの副葬品を調査することは有効な手がかりとなる。なぜなら、出土品や副葬品は、部族や被葬者の威厳や威儀のために、意図的に埋納された場合が多いからである。ただ、装身具などの副葬品は、時代の流行があったようで、たとえば、邪馬台国の弥生時代には、ヒスイ製の勾玉(まがたま)やガラス製品、さらに貝や銅及びガラスで出来た腕輪などである。特に、ゴホウラという沖縄や奄美大島のサンゴ礁沖でとれる貝で作られた貝輪(かいわ)、腕輪(うでわ)は「(くしろ)」と呼ばれ、選ばれた人だけが着装できる装身具であった。また、当時のガラスも貴重品で、現在のダイヤモンドに匹敵するほどであった。2020年8月4日の中日新聞は、福岡県糸島市の平原遺跡1号墓から出土したガラス片は、ピアスであったことを報じていた。
 これらの装身具に混じって、弥生時代遺跡からは「璧(へき)」が出土する。この璧という副葬品は、ヒスイやガラスなどで作った薄い輪状の玉器のことで、神権の象徴として祭祀に用いられ、王の正当性や威厳を表す威信財であった、特に玉璧(ぎょくへき)は古代中国の歴代皇帝は所有することを望んでいた品であり、同じ価値観がもち込まれた倭国で、璧の出土墳墓は王国の可能性が高い。図40は、それら装身具の代表的な例である。勾玉も縄文時代から続く装身具であり、貴重なヒスイなど装飾性のある材質が用いられ、弥生時代になって盛んに作られ交流するようになった。そのため勾玉は、どこの墳墓からも出土しており、王国特定の副葬品としてはふさわしくなく、ここでは除外することにした。

装身具
図40.  弥生時代における貴重装身具の例

 そこで、九州の弥生時代におけるガラス製品、釧及び璧の出土地を地図にプロットしてみた。その結果が図41である。ヒスイ製の勾玉は、ほとんどの弥生時代遺跡から出土しているため、図には含めていない。記号の〇印の大きさは、出土数の多少を表していて、最大径の場所では、ガラス玉類が数千個、貝や銅製の釧では数十個が出土している。
 したがって、これら貴重な装身具の出土分布からも九州における邪馬台国の所在地は、やはり九州北部であることが想定できる。 宮崎県串間市の「王の山古墳」から、王権の象徴である漢の時代の玉璧(国宝)が出土している。出土場所は、伝聞に基づくもので、串間市の「王の山古墳」から出土したという確固たる裏付けはないとも言われている。しかし、この志布志湾や肝属地方は縄文時代からの居住地で遺跡も多く、南方ルート渡来者の上陸地であった。また、神話にある瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が、このあたりの「襲国(そのくに)」に降臨した地である。降臨とは、史実では、域外からの渡来移住であるから、玉璧は中国南西部から持ち込まれた伝世品である可能性もある。それを裏付けるかのように、この玉璧は、中国南部の広州市にある南越王漢墓(紀元前200~100年頃)から出土した渦巻き模様の「穀璧こくへき)」と称される玉璧によく似ている。

出土地
図41.  弥生時代の九州における釧・ガラス及び璧の出土地

2. 倭の五王

 卑弥呼の後継者となった壱与は、前述のような中国の魏へ朝貢(貢物:みつぎもの)をしている。時期は、卑弥呼の死後であるから3世紀後半から4世紀初めであろう。それ以降の倭国についての記述は、中国の史書には全く出てこない。出てくるのは、壱与の朝貢から約160年後、倭の五王の一人とされる「(さん)」が、中国魏晋南北朝時代時代の413年に朝貢したという記述である。このため日本の4世紀は、「空白の世紀」「謎の4世紀」と呼ばれている。

 倭王の讚が朝貢したという記述は、前述の413年の他に、421年、425年、430年とあり、これらすべての年に朝貢あったものなのかどうか定かではない。しかし大事なことは、卑弥呼が死んだ約160年後に、倭の国があり、その国王が中国南北朝時代(439年~589年)の宋(そう)という国の王朝へ朝貢していたこという事実である。しかしもっと重要なことは、この「倭国」はどこにあった国なのか、讚という国王は誰なのかである。先に述べたように讚は倭の五王のひとりであり、残り4人の倭王がいることになっている。中国六朝(りくちょう)時代の学者、沈約(しんやく、441~513年)によって書かれた宋の時代の史書、「宗書(そうしょ)」卷97の「東夷伝(とういでん)」に、この倭の五王のことが次のように書かれている。文中の赤字が倭の五王名である。

 倭國在高驪東南大海中,世修貢職。高祖永初二年(421),詔曰:「倭萬里修貢,遠誠宜甄,可賜除授。」太祖元嘉二年(425)又遣司馬曹達奉表獻方物。死,弟立,遣使貢獻。自稱使持節、都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭國王。表求除正,詔除安東將軍、倭國王。又求除正倭隋等十三人平西、征虜、冠軍、輔國將軍號,詔並聽。二十年,倭國王遣使奉獻,復以為安東將軍、倭國王。二十八年,加使持節、都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事,安東將軍如故。并除所上二十三人軍、郡。死,世子遣使貢獻。世祖大明六年,詔曰:「倭王世子興,奕世載忠,作藩外海,稟化寧境,恭修貢職。新嗣邊業,宜授爵號,可安東將軍、倭國王。」死,弟立,自稱使持節、都督倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事、安東大將軍、倭國王。

 記事の中で、倭王が宗の朝廷に出向き朝貢する部分を意訳したものが次である。
 まず、「(さん)」に関する部分では、「421年、南朝宋の武帝は、倭の讚王は万里も離れている所から朝貢して来たのだから、遠くからの誠意を考慮して官職を授けよう」と言った。また、南朝宋の文帝の頃(425年)には、讚王は、臣下の司馬曹達(しばそうたつ)を派遣して親書と倭国特産品を献上した、とある。
 次に、「(ちん)」に関する部分は、「朝貢」の他に「おねだり」する文言がある。「讚王が死んだので弟の珍王が即位し、使者を送って朝貢してきた。珍は自ら最高官位名や倭国王と名乗り、親書を頂き、正式に任命してくれるよう要望してきた。そこで文帝は勅命を下し、珍を宋の東方を治める安東将軍(あんとうしょうぐん)・倭国王に任命した。さらに、珍王はまた、臣下の倭隋(わずい)ら13人にも平西・征虜・冠軍・輔国などの将軍の称号を授けるように要望したので、文帝はこれらすべて許可した」、という気前のいい話である。
 次は、三人目が「(せい)」の朝貢や任命についてである。「443年に倭国王の済王が使者を送って朝貢してきたので、安東将軍・倭国王と任命した。451年には、倭や新羅、任那・加羅などの軍統括官の称号を与え、臣下の23人も将軍や郡長官に任命した。
 次は、四人目の「(こう)」についての部分は、「済王が死に、世継ぎの興王(こうおう)が使者を遣わして朝貢してきた。462年、南朝宋の孝武帝は、倭王の世継ぎである興王はこれまでと変わらず忠心を示し、我が国を守る外海の垣根となり、我が国の文化に感化されて辺境を守り、うやうやしく朝貢してきた。興王は先代の任務を受け継いだのだから、爵号(しゃくごう)を授ける。安東将軍・倭国王と称号せよ、と勅命を下した」である。
 最後は、五人目の倭王、「(ぶ)」についてのくだりである。「興王が死んで弟の武王が即位した。みずから使持節・都督・倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓・七国諸軍事・安東大将軍・倭国王と称した」となっている。しかし、この文のあと、武王は長々と南朝宋の順帝に対する貢献話や自慢話が届けられたことを紹介している。

5世紀の東アジア
図42. 5世紀の東アジアにおける倭と宋

 この宋という国は、中国のいろいろな時代に存在する国名であるが、本稿での宋は、南北朝時代の南朝の宋(420年~472年)である。この時代の東アジア地図を図42に示し、倭国との位置関係がより理解できるようにした。

3. 倭国と倭の五王

 図42には、倭国を九州に位置してある。これは筆者の意向に沿ったものであって、多くの資料では奈良県あたりが倭国となっている。邪馬台国が史書から消えて約160年後、大和王権国家が誕生したというのである。その経緯は、空白の4世紀でもあり、どうしてそうなったのか分からず、神話の域を脱していない。ところが、400年代の倭国や倭の五王のことが、中国古代の史書、「宗書(そうしょ)」や「梁書(りょうしょ)」に記載されており、これを根拠にした倭国大和説が唱えられるようになり現在に至っている。
 つまり、倭国大和説者は、倭国は現在の大和地方であり、倭の五王は歴代天皇に比定できるとしている。たとえば、「讚」は、実在ならば4世紀後半の第15代応神天皇や4世紀末から5世紀前半の第16代仁徳天皇、及び5世紀半の第17代履中天皇(りちゅうてんのう)などが想定されている。前述のように、讚が宋の朝廷に出向き朝貢や献上を行ったのは421~425年である。この年代に近いのは第17代の履中天皇であるが、在位年が正しければの話である。その他、「珍」は第18代の反正天皇(はんぜいてんのう)、「濟」は、第19代の允恭天皇(いんぎょうてんのう)、「興」は、第20代の安康天皇(あんこうてんのう)、そして「武」は、第21代の雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)とされている。このように、比定は記紀にある天皇の想定在位期間を、倭の五王が南朝宋に朝貢した年に当てはめただけのことである。

 しかし「武」が雄略天皇であるならば、その4代前の「讚」は履中天皇でなければならない。ところが讚は、前述のように、中国魏晋南北朝時代時代の413年に朝貢している。そして425年にも朝貢しているのであるから、13年間は在位していたことになる。ところが履中天皇の在位期間は6年である(日本書紀)。讚の弟「珍」は反正天皇とされているが、反正天皇の在位期間も5年であり、両天皇の在位期間は合わせても11年でしかなく、辻褄(つじつま)があわない比定である。「武」は雄略天皇に比定されているが、これもおかしい。雄略天皇の治世は456年~479年とされているが、梁書には、「武」が梁の高祖(武帝)から征東大将軍の称号をもらったのは502年であるから、年代が大きく異なっている。
 このように、従来からの歴代天皇比定案は信憑性(しんぴょうせい)が薄らいでいる。ここで登場するのが九州倭国説とその五王説である。

4. 5世紀の九州王朝

 「宗書」などに記載されている倭国や倭の五王は、九州倭国の五王であったというのが本稿の主旨である。そのためには、前話に戻る必要がある。筆者は第14話などで、邪馬台国は、襲の国で旗揚げをした瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の曾孫による神武東征軍に敗れ、卑弥呼は死に、その後の壱与国も、413年頃、終焉を迎えたと述べた。このアナザーストーリーは、敗れたけれども、これまで続いていた中国の冊封体制(さくほうたいせい)を維持・発展させ、366年には中国冊封体制下にあった百済と同盟関係を構築するなど、朝鮮半島勢力との深い関係をもった倭国が九州にあったという想定である。

 史家の中には、倭の五王時代の倭は畿内大和ではなく九州であり、倭の五王も九州倭国の五王とする主張がある。代表的なのが、古田 武彦氏の「九州王朝説」である。根拠となるのは、魏志倭人伝の冒頭にもあるように「漢時有朝見者」、つまり、漢の時代より朝見する者があった。これは57年の倭の奴国の使者のことであるが、それ以来、邪馬台国が壱与に引き継がれても中国との交流は続き、高句麗・百済・新羅などとともに倭国も中国の冊封体制下にあったことである。

 古田 武彦氏の「九州王朝」の大きな根拠は、
1)「九州」は、豊前、豊後、筑前、筑後、肥前、肥後、日向、大隅、薩摩、九つの国のことではなく、古代中国の天下の意味であり、天子の直轄統治領域のことである。
2)倭の五王は畿内ではなく九州の大王であった。大宰府は619年から663年の「白村江の戦い」に敗れて滅びるまで、九州倭国の首都であった、というものである。この「白村江の戦い」というのは、663年に起こった朝鮮半島の白村江(現在の錦江河口付近で、韓国中西部を流れる主要河川)での日本・百済遺民の連合軍と唐・新羅連合軍との戦争のことである。百済遺民の「遺民」とは、君主が死亡し、王朝が滅びた後も生き残って、往時の文化や伝統を伝えている民衆のことである。

 古田 武彦氏の「失われた九州王朝-天皇家以前の古代史-」(朝日新聞社、1973年)には、
九州王朝と九州倭国の傍証が詳細に示されている。これら九州説には、史家の異論も多々あり、詳細は省くが、筆者も7世紀の九州王朝説には同調できない。筆者が想定する九州王朝は5世紀の九州倭国である。その期間は、倭の五王の一人、讚王が最初に朝貢した年は、魏晋南北朝に413年、南朝宋に421年であり、興王の朝貢が462年、その後の「武王」は470年前後と推考できる。南朝宋の衰退は472年、5世紀末であるから、南朝宋の時代の少なくとも60年間は倭国であるが、57年に奴国王から漢への朝貢があったことを考慮すると、倭国は約500年間、九州であったと考えることができる。

5。倭の五王国・よみがえる邪馬台国

 卑弥呼の後継者、壱与は3世紀の後半か4四世紀初頭にかけて、魏へ朝貢をしている。このころ、奇妙な記述が日本書紀にある。景行天皇(実際の在位は4世中頃)の九州巡行である。なぜ奇妙かというと、一国の天皇が7年も費やした九州一周の巡行であり、熊襲を征伐し王朝の威光を誇示する巡行であったならば、なぜ古事記にも記載されなかったかである。倭の五王の記述もないことを考えると、この「景行天皇巡行」は大和倭国偽装の匂いが漂う。それでも、今日も史実として史書にあるのは、巡行や宿泊地に残された伝承があるからである。

 球磨川河口に「水島」という小さな岩だけの島がある。この島の名の由来が景行天皇の巡行記述にある。天皇が芦北の港から八代海(不知火海)を航行して球磨川河口のこの島に立ち寄って休息・食事をしたとき、水を所望されたが水はなかったので、従者が祈ったところ水が湧き出た。そこでこの島を水島と名付けたとある。
  球磨郡あさぎり町深田西には「天子の水公園」がある。景行天皇がこの地の湧き水を飲まれたとされることから「天子の水」と名付けられたという。ここから、前述の芦北へ向かわれている。ここに来る前は、宮崎県の西都原、その前は綾町である。険しいこの山奥まで何の目的があって来たのか、その訳を考えるとますます分からなくなる。

チブサン古墳
図43.  装飾古墳の例(6世紀のチブサン古墳) 画像:県立装飾古墳館(山鹿市)

 さて、本論に戻ろう。倭の五王の国は、九州のどのあたりだったのだろうか、その手掛かりの一つが装飾古墳である。装飾古墳とは、古墳内部の壁や石棺に浮き彫りや線刻及び彩色などの装飾を施した古墳である。図43に装飾古墳の例として有名な熊本県山鹿市の「チブサン古墳」を示した。この装飾古墳は、4世紀から7世紀にかけて作られ、主に日本全国で700基ほどあり、その半数以上の約360基が九州地方にあり、うち熊本県には約200基、全国の29%にも及ぶ。残りの約120基が関東地方、約65基が山陰地方、近畿地方や東北地方にそれぞれ50基、その他は7県に点在している。この華美な装飾古墳は、豪族や王族古墳の証であることに疑いはない。

副葬品
図44.  古墳時代における金属製装身具副葬品
 

 装飾古墳は文字通り、古墳の壁や石室などを絵や文字などによって装飾された古墳であるが、古墳にどれだけ貴重な品が副葬されたかによって、貴人や王族の古墳であるかどうかが分かる。しかし、何が貴重品であったかは時代によって変わり、狩猟採集の旧石器時代は動物の骨や石であり、弥生時代はヒスイやガラス、貝であった。しかし、古墳時代になると、ヒスイやガラスなどよりも、金や銀などの金属が好まれ、図44に示すような耳飾り、指輪、腕輪などおしゃれ装身具となった。これらの品がどれだけ出土した地であるかは王都を探る手掛かりの一つとなる。そこで、古墳時代の遺跡については、「遺跡ウオーカー」サイト、副葬品の種類や出土数については「九州の遺跡古墳」を参考にして金、銀、銅及び鉄の装身具の出土地と個数を調べた。その結果が図45の九州の古墳時代遺跡における金属製装身具の出土状況である。このうち金()は金銅も含み、銅に金メッキしたもの、金箔を貼りつけたもの、金を象嵌したものも含めてある。銀()もそうである。銅()は純銅ではなく青銅などの合金である。

金属製装身具
図45. 九州の古墳時代遺跡における金属製装身具の出土状況

 鉄()は、鉄でできた腕輪などであり、金象嵌(きんぞうがん)鏡や鍍金(ときん)鏡を除く金属鏡、馬具金具及び武器の類は含めていない。九州の古墳時代遺跡から出土する金の装身具(首飾り、耳飾り、指輪など)の最も多いのは福岡県鞍手郡鞍手町の古墳である、この地区には、16基ほどの古墳があるが、そのほとんどから金銀銅鉄の副葬装身具が出土している。それらの総数は、金製品が49、銀が29、銅が18、鉄が2である。次いで多いのが熊本県の玉名市である。該当古墳数は9基であるが、その中の大坊古墳(玉名市大坊)からは、環状の金の耳飾りが11個も出土しており、これを含めたこの地方の金製装身具数は18個、銀は4個、銅は1個である。隣町の山鹿市でも金の装身具が9個出土しており、装飾古墳や副葬装身具が多いこの地区も倭国であったとも考えられるが、やはり歴代の五王が治めた倭国の首都は、邪馬台国と同じ九州北部であった可能性が高い。

6。九州倭国 貴人の歌

 九州倭国の首都は、やはり邪馬台国から引き継がれた現在の福岡県や佐賀県の九州北部であったが、都としての文化も花開いたと想像できる。詩歌の大家も畿内大和の歌として解説されてきた歌(万葉集巻1-2)がある。

 「原文」 山常庭 村山有等 取與呂布 天乃香具山 騰立國見平為者 國原波
     煙立龍 海原波 加萬目立多都 怜國曽 蜻嶋 八間跡能國者

 「万葉仮名」やまとには むらやまあれど とりよろふ あめのかぐやま のぼりたち
        くにみをすれば くにはらは けぶりたちたつ うなはらは かまめたちたつ
        うましくにぞ あきづしま やまとのくには

 「訓読」大和(やまと) には  群山(むらやま) あれど とりよろふ (あめ) の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原(くにはら)
     (けぶり) 立ち立つ  海原(うなはら) (かまめ) 立ち立つ  (うま) し国ぞ  蜻蛉( あきづ) (しま) 大和(やまと) の国は

 歌の意味は、大和の国にはたくさんの山々があるが、中でも極めて神聖な天の香具山に登って国見をすると、麓から煙が立ちのぼり、大海原にはカモメが飛び立っている。大和の国はまことに素晴らしい国だ、である。

 これは、舒明天皇(じょめいてんのう、第34代天皇、630年頃?が大和三山の一つ、香具山にのぼり、頂上から麓の郷を見下ろされたときに作られた歌とされている。しかしこの歌が奈良の香具山でつくられたのであれば、大変おかしい。香具山は奈良県の橿原市にある山で、標高は約152mであるから、この頂上に上っても海は見えない。そこで、この歌は奈良の都で作ったものではなく、海の見える九州の「カグ山」で作られた歌だと、九州王朝説の古田 武彦氏は言われる。それに対して、大和倭国説論者の反論は、「海原」は池や湖のことだという。これはいかにも苦しい弁明である。
 以前にも「ヨケマン談義」や「ふるさと探訪」で紹介したことがあるが、球磨川のほとりでなければ詠めない古歌がある。飛鳥時代の歌人であり、万葉集の代表的歌人である柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)の歌の中には木綿(ゆふ)の出てくる歌がある。万葉集 巻11(人麻呂歌集)2496がそれである。

           肥人 額髪結在 染木綿 染心 我忘哉
 この歌の読みと意味は、「肥人(こまひと)の額髪(ぬかがみ)結へる 染(しめ)木綿(ゆふ)の染(し)みにし心我れ忘れめや」であり、球磨人(くまひと)が草木染の麻で髪を結(ゆう)っていた珍しい姿が心にしみついて離れないように、あなたのことがどうしても忘れられない、である。この歌の「木綿(ゆふ)」は麻のことで、球磨は、昔は「求麻」であり、麻の産地であった。球磨川も、飛鳥時代から鎌倉時代までは、「木綿葉川」とか「夕葉川」と書かれ、いずれも「ゆうばがわ」とか呼ばれていた。今でも、八代市の国道3号線で球磨川にかかる橋の名は「夕葉橋」であり、球磨中央高校(旧球磨商業高校)の北、錦町と相良村の間の球磨川にかかる橋は「木綿葉橋」である。もうひとつ、歌人が球磨川河口を詠んだ歌がある。

 聞きし(ごと) まこと(たふと)く (くす)しくも (かむ)さび()るか これの水島 長田王 万葉集3-245
  (訳:噂に聞いていたように、本当に尊く、なんと神々しいことか、この水島は)

 この「噂」というのは、日本書紀にある「景行天皇の九州巡行」で、天皇が芦北から海路で球磨川河口に向われ、そこにある小さな小島で休息、食事をされた。島には水がないため、侍臣が祈りを捧げると、たちまち崖のほとりから清水が湧き出したので、それを酌くんで天皇に差し上げることができた。そこでこの島を「水島」と名付けられた、の伝えである。

水島
図46. 球磨川河口の水島(左)と龍神社

 この歌を詠まれた長田王(ながたのおおきみ・ながたおう)という方は、奈良時代の皇族である。奈良の都から、なぜ球磨川河口まで来る必要があったのだろうか。長田王には、こんな歌(万葉集巻3-246)もある。
      「葦北の 野坂の浦ゆ 船出して 水島に行かむ 波立つなゆめ」
(訳:葦北の地に旅をして野坂の浦から船を出し水島に行こうと思うから波よ立ってくれるなよ)。このほか、天草灘と八代海間の海峡、黒之瀬戸を詠った歌(万葉集巻3-248)や平安時代中期の三十六歌仙の一人、曽根好忠(そねのよしただ)
     「波のうつ 水島の浦の うつせ貝 むなしきからに 我や成らん」(続後撰集収録)
もある。
     「夏来れば 流るる麻の木綿葉川 誰水上に禊しつらむ
  この歌は藤原定隆(ふじわら の さだたか):という平安時代後期の公卿の方の歌で、意味は、夏になると球磨川に麻の葉が流れてくるが、上流では誰かが麻を使い禊(みそぎ)をしているのだろうか、である。

 なぜ、奈良や平安の貴人は、八代海を右往左往し、球磨川河口の小さな小島(水島)を訪ねようとしたのであろうか。それは、7世紀後半、古代地方行政機関の大宰府が設置されていたからとの説もあるが、歌は、それ以前のものが多く、歌人の居住地が九州の倭国であったからにほかならない。

7。九州倭国の終焉

 九州倭国が唯一の中国との交流国であったが、権益を求める豪族は各地に存在した。それがどの地方だったのかは、古墳時代の遺跡分布から想定できる。すなわち、九州北部、出雲地方、播備地区及び畿内大和などであった。九州倭国の権益が増大していくなか、中でも今の奈良県を中心にした畿内大和に強大な国ができ、やがて九州倭国や出雲の国と対決するようになり、その征伐が神話や伝説の「景行天皇の九州巡行」や「熊襲征伐」であり「国譲り」である。

 527年、九州北部で「磐井の乱(いわいのらん)」が勃発する。朝鮮半島南部へ出兵しようとした大和王権軍と、それを阻止しようとした筑紫磐井(つくしのいわい)、またの名を筑紫国造(つくしこくぞう)の熾烈な戦いで、翌年、大和軍によって鎮圧された。この磐井の乱の関係地は、現在の福岡市東部の宗像や鞍手地方、及び八女市、久留米市、朝倉市などの福岡県南部であり、これらは、先の金属製装飾副葬品の出土地であることを勘案すれば、筑紫君磐井(筑紫国造)は九州倭国の末裔であったと考えられる。筑紫国の願いは叶わず、ついに663年「白村江の戦(はくそんこうのたたかい)が始まった。この戦いは、大和倭国と百済の連合軍と中国唐の支配下にあった新羅連合軍が対峙し、覇権を争った。結果は、大和倭国と百済の連合軍は陸上戦においても、海上戦においても大敗した。白村江とは朝鮮半島西部を流れる川、錦江(きんこう・クㇺガン)河口付近である。
 ここらあたりまでの歴史は、九州倭国、九州王朝でのできごととして詳細を検証され、上梓されたのが古田 武彦氏の「失われた九州王朝」「よみがえる九州王朝」である。古田 武彦氏の九州倭国は紀元前から7世紀であるから、この白村江での敗戦が九州倭国の終焉である。
 筆者の九州倭国は1世紀から5世紀であり、その終焉は畿内大和王権の支配下となった時期である。その時期は、大和王権誕生の定説となっている4世紀ではなく、飛鳥時代の6世紀であろう。                             

<つづく>  

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